【期間限定再録】モイライの糸【後編】
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──どうして?
目の前で男が啜り泣く。立ち尽くし、絶望をその目にいっぱいに湛え、潔を縋るように見つめた。
──こんなに愛してるのに、どうして俺を見てくれない?
哀れむ気持ちと、途方に暮れる気持ちの両方を味わった。
──俺の方が絶対にあんたを幸せにできる。大切にできる。あんな、あんたを雑に扱うような男は許せない。
ごめんな、と潔は言った。必死に潔を求める男に、しかし返せる言葉はそれだけだった。
──確かに、周りから見たら凛はひどい男かもしれない。でも、俺にとってあいつは、命より大切な存在なんだ。それを分かって欲しい。
男の瞳の奥で、何かが砕けた。
──分からないよ。
彼は言った。絶望にまみれた声で。
──分からない。何も分からないよ。
ごめん、と潔は繰り返した。潔を全身全霊で求めてくれる男に、しかし差し出せるものは何も無かった。
その夜、潔は荷物をまとめた。スーツケースに当座の衣服と生活用品を詰め込む。スーツケースを片手に自室から出て来た潔に、凛は唖然とした。蒼白になって行く手を塞いだ。
「凛、退け」
「何してる?」
凛の顔は恐怖に満ちていた。
「どこへ行く。その荷物はなんだ」
「見りゃわかんだろ。出ていくんだよ」
凛が動き出すまでに、まるまる十秒はかかった。端麗な顔に衝撃が広がり、徐々に怒りに歪んでいく。
「ふざけんな! そんなこと、許すはずがねぇだろ!」
「おまえの許可はいらねぇよ。おまえに俺を止める権利はない」
「権利は無い?」
凛はひび割れた声で繰り返した。
「ッあるだろ! おまえは俺のものだ。俺の──」
そこでふっつりと言葉が途切れる。潔は挑むように凛を見上げた。
「俺の、なに?」
「……ッ」
「その続きが言えないような男に、引き止められる謂(いわ)れはねぇな」
潔はあえて心にも無いことを言った。凛はいつだって潔に理解されていると信じている。彼を遠ざけるには、その信頼を裏切る以外他に方法が思い当たらなかった。
案の定、凛は傷ついた顔をした。血が出るほど、強く唇を噛み締める。潔は更に追い打ちをかけた。
「おまえと俺は、結婚しているわけじゃない。つまり、正式なパートナーじゃない。だから、おまえは俺を引き止められない。分かったか?」
潔は立ち尽くす凛の横を急いで通り抜けようとした。だが当然、凛は許さなかった。潔の腕を掴む。きつく、折れると思うくらいの力で。
「……黙れ」
「凛」
「黙れ黙れ黙れ! おまえは俺のもんだ! 俺の傍にいなきゃならねぇッ。そう決まってるし、おまえも誓っただろうが!」
「っ、事情が変わったんだよ」
「知るか! どうでもいい!」
「良くねぇ!」
潔は凛の腕を強く振り払った。潔がここまで凛を拒絶するのは初めてだった。凛は一瞬呆けた顔をした。まるで母親に捨てられた子どものように、無垢なショックをあらわにした。
「……良くねぇんだよ、バカ」
潔は凛を突き飛ばした。凛がたたらを踏む。その隙に通り抜け、玄関に向かった。諦め悪く伸ばされる腕を、再び乱暴に拒絶する。
「言っただろ。テメェも兄貴も考えすぎなんだよ」
凛が足掻いた。
「未来は変わってるんだろ? なら、きっと俺は殺されない。おまえがルーカスって野郎に近づかなきゃいい。それで済む話だろ」
「……だめだ」
潔は首を横に振った。本当は同意したくてたまらなかったが、できなかった。顔を合わせた時に見せたルーカスの表情が脳裏をよぎる。あの目。あの態度。あの言葉。そして、あの涙。何の感情も抱いていない相手に見せる反応ではなかった。彼は明らかに潔に対して、何らかの特別な感情を抱いている。その事実を、潔はどうしても無視することができなかった。
「おまえが狙われる可能性が一パーセントでもある限り、だめだ。ルーカスが俺に対して恋愛感情を抱いて無いとはっきりするまで、俺はおまえから離れる」
それが今の潔に出せる、精一杯の結論だった。
「じゃあな」
……本当はもっと凛を傷つけるべきだった。彼が潔を嫌悪するくらいに、徹底的に心を踏み砕くべきだった。凛のためにそうするべきだった。中途半端な拒絶は、更に傷を深くするだけだ。けれど潔には凛をこれ以上傷つけることはできなかったし、例え凛の心が壊れるくらい傷つけたとしても、彼が自分を求めずにはいられないことも知っていた。
「俺を守るって、こういうことかよ」
凛が血を吐くように呻いた。
「これなら、殺されたほうがマシだ」
潔は息を詰めた。俯き、言った。
「俺がマシじゃねぇんだよ」
玄関を出て、後ろ手で扉を閉めた。凛が壁を殴る、酷い音がした。
行くあては無かった。泊めてくれる知人はいくらでも思いついたが、今は誰にも会いたくなかった。潔はホテルを取り、部屋に入った。
「────ッ!」
ひとりきりになった途端、感情が爆発した。潔は壁を殴り、スーツケースを蹴った。カーテンを引きちぎり、観賞用の花瓶を割る。それから、蹲(うずくま)った。目頭が熱を持ち、堪えるのに苦労した。息が出来ない。心臓が痛い。頭を抱えて、獣のように唸った。
「畜生!」
床を叩く。一度、二度。
「ちくしょう! 畜生! なんでこうなるんだよ! なんでだよ!」
何もかもうまくいっていた。それなのに、たった一日で全てが変わってしまった。たった一人の男の出現で何もかもが壊れた。潔が必死に守ってきた世界は、今日をもって崩れ去ったのだ。
身体が冷たくなるほど、そうしていた。やがて潔は、のろのろと顔を上げた。前髪をかきあげ、大きく息を吐き出す。冷静になれ、と自分に言い聞かせた。
喚いたところで、何も変わらない。崩れた世界は戻らない。ならばせめて、残ったものだけは守ろう。全身全霊をかけて守ろう。──糸師凛を。
潔は自分の身体を抱き締めた。最後に、凛に抱き締めてもらえば良かったと思った。